927年以前の乎豆神社周辺の分っている事
この細江町中川地区は、五世紀(401年~500年)には大和朝廷により「刑部の御名代」と定められ、平安時代(794年~1185年)の終わりには伊勢神宮の『刑部の御厨』(オサカベミクリヤ)が置かれました。
遠淡海(トウツオウミ)に注ぐ最大河川都田川流域の、刑部郷では最も大きな沖積平野(チュウセキヘイヤ)で銅鐸8個が出土古代より大いに発展した土地で、乎豆神社の西方500mからは『引佐』と墨書きされた奈良時代(710年~784年)の須恵器(スエキ)が出土し古代の『引佐郡家』との関わりも推測される。
平安時代927年に延喜式神名帳が完成し乎豆神社の名前が記載されていた。
※遠淡海(トウツオウミ)とは浜名湖のこと、京都の都から近い琵琶湖を『近い淡海』というのに対し、都から遠い湖の意味から『遠淡海』と呼ばれる。
遠淡海(浜名湖)とは?
遠淡海(浜名湖)は昔は淡水湖であり、室町時代に起きた明応地震(1498年)と高潮により砂州が決壊して外海と通じ、汽水湖となった。
上記五世紀(401~500年)から遠淡海(浜名湖)が明応地震(1498年)により汽水湖なるまで約1000年間、日本の中でも全国トップクラスに入る年間の日照時間(2200時間以上)、沖積平野、温暖な気候、そして遠淡海の淡水による農業、漁業の恩恵などなど、くらしていくには問題の少ない良い地域であったのではないか?
都田川、井伊谷川流域の地域だけで、数十の遺跡があり、この数がくらしやすさを証明しているのでは?
都田川の豆知識
都田川も全国的には珍しい川なんですョ
都田川を調べると、浜松市北部鳶ノ巣山(トビノスヤマ)に源を発し遠州灘に注ぐ河川、と記載されている。
遠州灘に注ぐとは、浜名湖は、湖なんだけど都田川の一部なんです。
浜名湖やその支湖に流入する川も都田川水系の河川として指定されている。(流入する川は37水系ある)
奈良、平安時代の遠淡海全体
明応大地震前後の浜名湖河口付近の地形変化